2020年05月15日

他人にビビらない方法

人にこう思われたい、という欲求の無い人間なんていない。
ボクにはそういう強い確信がある。

ボクに攻撃的な態度を見せる人も、従順な態度を見せる人も、絶対に内面にナイーブな自意識と承認欲求を抱え、それをどうにか実現しようと焦り、執着し、あがいていると思う。
okgyu.png

私はそんな欲求ないよ、人にどう思われるかなんて意識してないよ、なんて人が居たら是非教えて欲しい。
絶対いないとは思わないけど、きわめて特殊な悟った人だろうね。
もちろん、「悟った人」はまがい物が99%だと思うけど。

・・まぁ、「私は名誉欲ありません」という発言をする、もしくは、「この人は名誉欲なんてない人です」と周囲に言わせるように仕向ける時点で、即時に矛盾するから、誰一人として私がそうです、なんて言えるわけがないんだけども。

「私は●●な人です」と他者に向かって発言すること自体、私はこういう人だと他人に思って欲しい、という欲求の表れだからね。
自称サバサバしてる人、みたいな。
そして、そういった作為なしに、掛け値なしに怒ったひと、泣いた人、笑った人をボクは見たことがないと思う。

大声で怒鳴りつける人を前にしたときは、きっとこの人は「大声出せばコイツはビビるだろう。私を怖いと思って欲しい。」と思ってるんだろうな、そして、自分の言うことを聞かせたいんだろうな・・なんて考えつつ、心に余裕を持ちながら自分の行動を決める。
ロールプレイみたいな感じにね。

場合によっては、この人はもしかしたら内心、「大声出して言うこと聞かなかったらどうしよう?」と不安になっているかもしれないな、なんて考える。

こうした発想は、誰かが泣いている時も笑っている時も同じだ。
この人は人にどう思われたくて、こんな行動を取っているのか、おそらくこうだろうな・・・なんてことをいつも考えている。
その表情、しぐさ、服装、場所、時間・・・なんかを観察しながら。


正直言って、ボクのこの発想はクズだと思う。
人の感情や考えを、見くびり、軽んじ、無視することだからね。

でも、これはボクにとって必要な発想だ。
この発想はボクの人間関係における戦略の根本なんだ。

この発想を持つようになってから、ボクは、ボクに向かって攻撃的な人を見ても、あんまり恐怖を感じなくなった。
人が泣いているところを見ても、あまり同情しなくなるし、笑っていても幸福だろうと解釈することもなくなった。

そうやってボクは自分を守っているわけだ。
どうせ見せているだけだ、ボクが損害(ボク自身の心を動かすことは、痛みであり"損失"なのだ)を背負ってまでまともに取り合うべきじゃない・・と思えるからね。

それに、自分自身が作為をもって何らかの感情を演じる時の免罪符にもなる。
他人にどう思われたいか考えたうえで、それを実現するための感情表現なんてみんなやってるさ。ボクだけがそれをしないなんて不公平だよね・・なんてね。


でもふと考えることがある。
人の感情表現は作為的に作出されているに違いない、というボクの発想そのものが、ボク自身についての理解を他者に投影しているだけで、実はボク以外のみんな、本心から笑い、怒り、泣いているのかもしれないな、なんて。

だから時々実験したくなる。
社会心理学の範疇だろうか。

なるべく比較可能な状況を人為的に作り出し、一定の刺激を与えて、笑うか、泣くか、怒るか。
周囲の人間の有無、それを見ている相手との関係性なんかで大きく変わると思うんだよなぁ。

これは、他人の心理構造の分析をしたいというのと同時に、自分の心理作用が正常なのかを知りたいという欲求でもあると思う。


学生の頃、心理学の先生が言ってたな。
「心理学をやりたいと言う学生の多くは、本当に求めているのは心理学の探求や社会への学業成果の還元ではなく、自分の精神の安定を得たがっているように見える」

うん、至言だと思う。

ちなみにボク自身は、大学で心理学をやっていたわけではない。法学部だし。
教員免許を取る過程で、教育心理とか発達心理とか、心理学系の単位を取らなきゃいけなくてね。
(↑ボク自身がそういう拗らせた自意識を持っていると他人に思われたくない作為の現れた弁解的文章。いや、拗らせてるけど。)

にほんブログ村 その他日記ブログ 社会不適合者日記へ
にほんブログ村
posted by かのぴ~ at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください