2019年09月12日

奴隷のエクスキューズ


煽り運転流行ってるんだってねぇ。
この話題になるとすぐに、煽られる側の非を問おうとする声が挙がってくることに、ボクは恐怖する。

このケースでは、ついには逮捕された当人までそんなこと言い始めちゃったという。
aor.JPG
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20190911-00000010-ann-soci


「追い越し車線をダラダラと走っているのが悪い」だとか「追いつかれた車が車線を譲らないのが悪い」あたりが典型だろうか。
「煽られるような行為をしている方も罰しろ」なんて発想さえ出てくるからおそれ入る。
(ちなみに「煽られるような行為」が交通違反なら当然捕まるし切符切られる。走行車線ずっと走れば通行帯違反だし、ウインカー出さなければ合図不履行だ。)

空気が読めないコミュ障のボクは、日本におけるあおり運転の扱われ方に、迫害・・もっとはっきり言えば、いじめがなくならない日本社会の根っこのようなものを感じる。


■あおられる側の原因 ~空気読めないことの悪~

あおり運転の原因なんて実にショボい。
「道塞いだ」、「急に進路変更した」、「ウインカー出さなかった」。

時に原因は、むしろ真面目で適法な運転であることさえある。
ゆっくり走ることなんてのはその例だろう。

たまに「ダラダラ走る」なんて言い方されることもあるけど、これなんて典型的だよね。
法規に沿って制限速度を守ることを「ダラダラ」と表現するわけだ。

「流れに乗る」ことや「円滑である」ことが、安全の為に設けられた法規よりも上で、それを乱すのは「流れ」が読めていない悪いことで、違法な脅迫行為であるあおり運転と対置され、比較される対象になりうるのだ。

いじめ(犯罪)を正当化する、いじめっ子や傍観者の論理そのままだと思う。
それ、比べるようなことか?


■あおり運転は原因行為への"対処" ~強い者が取る被害者ポジション~

「道塞いだ」、「急に進路変更した」、「ウインカー出さなかった」というのも犯罪だろう、と思うかもしれないね。

でもね、原因行動が違法だったとしても、それを罰する権利なんか個人にはないんだ。
あおり運転を誘発する違法な原因行動と比較され、評価され、場合によっては正当化されるのは避難方法や回避方法だろう。
間違っても報復としてのあおり運転とを比較してよいわけがない。

これもいじめと一緒。

いじめられる側の行為によって何らかの被害を受けたのならば、すべきことは補償を求める事や、行為を止めさせることだ。
いじめによって攻撃することじゃない。

明らかにバランスを失しているのに、危険性も反社会性も全然違う行為を原因や正当化の為に持ち出す。
それは単に、被害者ポジションを取って攻撃したいだけなんじゃないか。


■処罰できるのは誰か ~近代社会の否定~

どんな行為が"悪い"と評価されるのか。
"悪い"事への責任は、どんな場合に負うか。
その判断が事実に基づくことをどうやって保証するのか。
サンクションはどの程度の、どんな方法が妥当か。
サンクションを実現するのは誰か。

国家権力がやるにしたって、慎重に慎重を重ねて吟味されなきゃいけない。
それを個人がその場で実現しようなんて発想自体、言い訳無用の悪だ。
こんなものは、中学生レベルの近代国家の基本中の基本だと思うんだけど。

この慎重な取り組みをぶち壊すような、報復される側の是非を問う発想はまるで未開国家だ。
なぜか日本ではそれが普通に語られてしまう。

いじめられる側にも原因はある、なんて。
あおられる側にも原因がある、って。

もう日本って未開社会だと認めた方が良いんじゃないのか。


■建前 ~奴隷のエクスキューズ

この手の「あおられる方にも原因」、「いじめられる側も悪い」って類の言説には必ずと言っていいほど言い訳が付いてくる。

「あおり運転は悪いが」とか、「煽り運転を擁護するつもりはないが」。
「しかし、〇〇なのも事実。」

エクスキューズを前置きすることはぬかりなくした上で、あおり運転の正当化だったり、あおり運転をする側の責任を少しでも小さく見積もろうと頑張る人たちが大量に出てくる。

実にいじめの正当化と似ている。
「確かにいじめは悪いことだが~」ってね。


もちろん、問題ある行動に対して、一方的な意見しか言うべきではないとまでは思わない。
行為の悪質さがアンバランスな時でも、悪質な方を擁護する考え方があっても良いと思う。

例えば犯罪者や、ボクらみたいなロクデナシの様々な問題行為を個人の責任に押し込めて追及してもあんまり効果はないから、そういうクズを量産した社会構造やそれを防げなかった政治の責任を問うことだってあって良いはずだ。
そのほうがより効率的に問題を解決できるのならば。

豊かさと犯罪率と明確な相関関係がある以上、犯罪をしなくても済むような状況を作ることは政治の役割だろう。
その運営を誤ったのならば検証されるべきだし批判もされるべきだろう。

そんなときの為に、「確かに無職ニートは問題がある、しかし。」というエクスキューズは、批判精神のためには是非とも必要だと思う。

間違いなく、ボクがロクデナシなのは、ボク自身の性格、努力の不足、能力の不足といった要素に由来する。
というか、一人でも成功したものが居る限り、残りの2千万人(氷河期世代がこのくらい)に対して、お前の努力が足りない、能力が足りない、と言えてしまう。「頑張って成功した奴は居る」ってね。

でも、それは確かにそうだけど、他に問えばより効果的なものがある。より効果的に対応できるものがあるならば、あえてそちらに責任を要求することはあって良い筈だ。


けど日本ではどうだ?
「〇〇は確かに悪いがしかし~」、「しかし〇〇なのも事実」と言った後で擁護されるのはむしろ権力を持った側。
攻撃されるのは弱い方。こればっか。

犯罪被害者に。
いじめられた側に。
災害被災者に。
病人に。
障がい者に。

飼いならされた奴隷が、更に弱いものを叩くために、一応解ってるよ、というエクスキューズをするためにばかり使われる、「確かに悪いがしかし~」。

実に醜く醜悪な、奴隷のエクスキューズだ。



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posted by かのぴ~ at 23:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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