2019年04月12日

綺麗な金の使い方をしたい

ボクは金の使い方がヘタだ。

たとえば、220円のバス代をケチるために、30分かけて歩いたりね。
時給換算したら最低賃金以下だ。

定期券を買ったときに、何回乗ったら元が取れるかなんてバカみたいなこと考えたりね。
(休みが多い月は定期券買わなかったりする)

もちろん、ひたすら金を溜め込むというわけでもない。
趣味はあるし、クルマやバイクを持っている。

けど、その趣味の中でも、妙にケチるのだ。
バイクなんて完全に嗜好品なのに、妙に燃費が気になったりね。

バイクで旅にでて、泊まるところケチってネットカフェで寝たりね。

なにか、どこか中途半端。


ヘタって言うのもなんだかへんな言い方だし、じゃぁどんな使い方が上手いのか、というのも良く分からないんだけど。
少なくともボクは気持ち良く、あるいは有意義に金を使えていないと思う。

心理的に、金を使う場面で妙な罪悪感のようなものを感じてしまうのだ。
罪悪感というほど強くはないか。うしろめたさや不安というべきかな。


社会不適合者のボクは人より路頭に迷う可能性も高いし、将来への不安だろうか。

でも、結構本気で「まぁ別に死んでも良いか」と思ってもいる。将来も何も関係ない筈だ。

この矛盾は何だろうか。


かくして、人生に執着していないはずなのにかといってぱっと金を使ってしまう刹那的な生き方もできない、酷く中途半端でうそ臭い人間があるわけだ。



絶対に他人には言わない言葉なんだけど、これがいわゆる「育ちが悪い」ということなんだと思う。

有意義で、自分を豊かにする金の使い方が分からないのだ。
数字の多寡でしかものが見えず、必要なもの、良いもの、持つべきもの、使うべきものをきちんと判断できないのだ。

いい歳になって、収入は増えて、生活費が全く気にならなくなったはずの今でも、そんな行動を繰り返している。


世間では浪費癖が一種の病気(買い物依存症とか)として認識されているようだけど、この病的なケチ差には何か病名はつかないのだろうか。


ともあれ、最近は努力している。

でも、所詮は付け焼刃。

贅沢するって言っても、せいぜいコンビニで高いデザート買うとか、そんなモンなんだけどね。

最近はもちもち白たい焼きが・・結局ショボいな。

posted by かのぴ~ at 00:33| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月10日

ダメ人間の好む街

ダメ人間の自覚ができてから好きな街が幾つかできた。

カトマンドゥのタメルやタイの田舎(チェンライやメーサイ。カオサンはもうダメ。)。インドのフンザなんかも良い。
あと、酒を飲む人にはだめだろうけど、ボクは飲まないので中近東諸国のアラブ人たちの緩さも結構好きだ。
出稼ぎインド人たちは忙しないけど。

そこには、何をするでもなくぼんやりとそれでいてそこそこ幸せそうな人たちが居る。
あぁ、別に何かにおいたてられて生きなくても良いし、人生何とかなるものかな、という気分になれる。

これはいろんな精神的な問題の治療に有効じゃないかと思う。


そんな雰囲気を感じられる街が日本にもある。
西成だ。

最初は単純に破格の安さで宿がとれるという理由で、近畿方面に行ったときは1泊1,500円程度の宿に泊まったりしていたんだけど、そのうちに、この街が、税金のかからない(?)日雇い労働だったり、路上販売やらの街であったり、現代の遊郭街であったりする要素があることを知った。


この街もやっぱり、なんとかなると思わせてくれる。
ただ、国外のそれに比べるとだいぶ殺伐としてる気はするけど。

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安宿に行けば、ダラダラ昼から酒を飲むおっさんもいれば、早朝から日雇いを探し出歩く人もいる。
路上で「現金要るか〜?」なんて声かけてくる手配師(もちろん派遣法違反だろう)のおっさん。
早朝6時には始まる銭湯。

その日の日雇いで仕事が取れなかった人たちで数人集まって始まる路上の酒盛り。

人によっては堕落して、不自由で厳しい生活かもしれない。
でもボクにはそれは人間らしく映る。

おっさん達から言わせたら、スーツ着て空調の効いた屋内でデスクワークしてるヤツに自分の気持ちは分からない、なんて思われるんだろうけど。


こうした場所を知り、勝手が分かるということは一つの強みだと思う。
心にどこか余裕ができるんじゃないかな。

思いつめて死ぬくらいなら、全財産もってネパールとかインドとかで隠居生活というのもいいかも知れんな。

残念なことに物価差は縮まっている。
隠居する頃にはこうした国々も、そして西成も避難地ではなくなっているかもしれない。

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posted by かのぴ~ at 01:19| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月08日

コミュ障

ボクはコミュ障だと思う。


人と話すと異常に緊張する。

特に電話は嫌いで、知らない番号から携帯に着信があるだけで嫌な汗をかく。
直接話すのも、相手によっては異常に汗をかいたりする。

そう、「相手によって」。


ここがボクのクズなところだ。


相手が明らかに自分に害を及ぼせない立場の場合は全く問題が無いのだ。

単に後輩とか取引先とかそういうことではない。
後輩でも、問題行動を起こせば当然人事問題になるだろうし、取引先だからといって昨今は侮ることはできない。


ではどんな場合に問題なくコミュニケーションできるか。

相手が無知な場合。自分より間違いなく劣っていると考える場合。

たとえば、専門性のある話をするときに、明らかに自分のほうが前提になる情報や経験を持っている場合だ。
そういう相手は反論してこないだろうし、して来ても容易に潰せる。

そんなときは緊張することも無く、嫌な汗もかかず、言いたいことを、言いたいように話すことができる。


我ながら最悪な人間性だと思う。

しかし、これは「人格」なのだ。
意思でコントロールできるものではない。

相手の状態によって分け隔てするべきじゃない、と頭で考えたって、汗をかき、どもり、緊張することはどうすることもできないのだ。


自分の意思ではどうしようもない人間性を、ボク自身が嫌悪する。
不毛なことだ。


いや、待てよ。
心の底では自分のそういう人間性を嫌悪することすら本当はできていないのか。
それで何が悪い、くらいに本音では思っているのではないか。

だから変われないのではないか。


醜悪な人間性だと理解はできても、それを心から悔いることはできないのだ。

ボクは生まれてから今まで本気で感情を動かしたこと、動かせたことがあったのだろうか?


いつもどこか冷静で、どんな感情も演技しているような気がする。

どんな行動も、発言も、人にどうどう思われるか、普通の人ならどうすべきかを計算し、演じているだけなんじゃないか。

ボクの本質は、無感動で、無感情で、何もかもがどうでも良く、自分にしか(意やもしかしたら自分についてさえも)興味が無く、こうして自分を見つめる文章を書いていてすら、その精神の核心には誰も(自分自身ですらも)触れられないのではないか。

ボクに精神はあるのかすら怪しくなってきた気がするな。
この、「精神があるのかすら怪しい」というフレーズさえ、演じているのだけれど。
posted by かのぴ~ at 01:19| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする