2019年04月21日

「退屈」と「飽き」が人生の本質じゃないか

人間のいろんな感情の中で、「飽き」とか「退屈」というものが本質的で最強の感情じゃないかとボクは思う。

個人差はあるけど、
どんなに激しい喜怒哀楽も、「飽き」の感情には勝てない。
どんな感動も絶望もいつか忘れて、感じなくなる。

どんな感情も時間には勝てない、とも言えるかもしれない。
時間がもたらす感情は「飽き」で、訪れるのは「退屈」。

他のあらゆる感情を塗りつぶす虚しさ。それが「退屈」だと思う。
だからボクは精神の本質は「飽き」にあるんだと考えるようになった。



仕事がないのが辛い?
じゃ、勤め先見つけて毎日会社行くか。まぁ10年持たず飽きるよそんなの。
会社は飽きさせない為にローテーションとかいろんなこと考えるでしょうけどね。

仕事が退屈?
じゃ、家にこもってダラダラするか。そんなもの、下手すれば一日で飽きるよね。

死にたくない?
じゃ、永久に生きるか。ひたすら今と同じような日常が続く生が続く、それは平坦な地獄。
生きながら波乱万丈な戦乱でも経験するか?
それさえも飽きると思うな。そのうち、「これ、勝ったからって何なの?」って思うようになるんじゃないかな。

ボクは転生なんていう非科学的なものは信じてないけど、仮に人の生が何かの繰り返しだったとして。
例え生まれ変わる度に記憶を失ったとしても、虚しさを感じない?
生まれては死に、生まれては死にを永遠に繰り返すとしたら。恐ろしいほどの空虚を覚えないか。


人間の様々な活動は、「退屈」しないためにあるんじゃないかな、と考えることがある。
もちろん、他にもいろんな仮説は成り立ちうるんだけど。

生存を確保するだけだったら、衣食住があれば良い。
それでは「飽き」るから、より美味しいもの、多種の食べ物を求め始める。
より広く、眠る以外のこともできるような住居を求め始める。
寒さや外傷を防ぐだけでは「退屈」だからいろんな色彩や素材を考える。

ただ食べて寝て生殖してではつまらないから、最低限生きることに必要な範囲を大幅に超えて蓄財する。



そう思うと、新しいことを始める気にもならない。
会社と家の往復をして、たまに銭湯に入る。

週末、寝て過ごす。それも虚しいけど、かといってどこかに行く気にもなれない。
いろんなことに飽きて、無感動になった気がする。

もしかしたら、生きること自体に飽きたのかもしれないな。

考えてみると、死って救いだよね。


で、結局この記事は何が言いたいかって?

ひきこもりの仲間達へ。
安心しろ、人生やこの世に退屈して、鬱屈してるのは別にひきこもってるからじゃない。

仕事したってしなくたって同じだ。

・・ってこと。

にほんブログ村 その他日記ブログ 社会不適合者日記へ
にほんブログ村
posted by かのぴ~ at 01:54| Comment(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月19日

野球が嫌い

ボクは野球が嫌いだ。

正確には、野球そのものではなくて、野球やってる人、野球をやって育った人、それを応援したり運営したりする組織が嫌い。


おそらくボクだけの経験じゃないと思うんだけど、中学や高校の頃の野球部の連中は変な優越感を持ってたと思わない?

運動部全体、文化系に比べて地位が高いかのような変な空気があったんだけど、中でも野球部の連中の態度は、あからさまに他を見下していた。

野球やってるってだけで汗臭いハゲがイキってるの見るとウンザリする。

他の部活動で一生懸命な人に、その努力を侮り、「ま、●●と違って野球はメジャースポーツだからな」なんて堂々と口にする恥知らずもいたな。

メジャースポーツやってたら偉いのかね。

それを容認してつけ上がらせている学校も気に入らなかった。
なぜ野球だけを全校挙げて応援する必要があるのか。なぜ野球にばかり重点的に学校設備の使用をさせ、予算を配分するのか。



彼らの馬鹿らしい優越感は何に由来するのか、聞いてみたことがある。
「野球やってるとなんかエラいの?」
・・まぁこういうこと聞いちゃうから友達少ないんだろうな。

曰く、「厳しい練習に耐える根性」とか。「規律を守り礼儀正しい」とか。

なんのことはない、理不尽な上下関係やいじめの構造は見て見ぬふりしつつ、表面的な態度がどうだの頭髪がどうだの礼儀やらを微に入り細に入り縛る環境に耐えて適応したってだけのこと。

そんなものに耐えてできあがる人格なんて、表面だけ取り繕って内部では強権的にふるまうクズじゃないか。

私は何も考えてません、言われるがまま理不尽にも耐えますって奴隷宣言してるようなもんだと思ったね。


練習が厳しい?
そもそも野球なんて持久スポーツでもないし、ヘロヘロになるまで練習しても意味ないだろ。根性があっても勝てやしない。
運動強度(METS数)見れば一目瞭然だろう。

必要なのは瞬発力だったり筋力だったり巧緻性。有酸素運動じゃ身につかない。


礼儀正しいってのもスポーツとは一切関係ないよね。
一年はボール拾いやってろ、とか用具の手入れしろとかやってんだってね。

上手くなる機会をわざわざ雑務に費やして機会を失って何の意味があるんだろうね。
せいぜい先輩が後輩に追いつかせないって意味くらいしかない。チームの成果に全く寄与しない。

しかし、彼らは全く疑問にも思っていないようだ。

「上下関係は社会に出ても必要。」
「礼儀もなってない奴は良いプレーはできない。」
「統制が取れなければ勝てない。チームプレイが成立しない。」

なんだとか。

完全に自己洗脳。礼儀正しくたって速い球打てんだろ別に。
要するに野球をさせる前に、従順で扱いやすいヤツを選別する関門を設けてる誰かさん(多分監督)に疑問をもつ知能もないわけだ。


要するに、無駄で無意味で理不尽な野球の中に、頭が悪いヤツがそれに耐えて無意味な自尊心を持ち、それを周囲が容認して付け上がってる。

それが野球をする人達と野球に協力する人たち。


この日本の野球文化がたまらなく気持ち悪い。

そんな環境で耐えて出てきた選手達が歪んでいないわけがない。
そしてそれがあたかも模範的なように扱う社会も、歪んでいないわけがないのだ。


もしそれが社会の正常な姿なのだとしたら、それが歪に見えてしまうボクの方が歪んでいるのかもしれないけれど。


残念ながらボクの勤務先は社会人野球チームがある・・。都市対抗野球とかで動員されるのは本当に苦痛だ。

にほんブログ村 その他日記ブログ 社会不適合者日記へ
にほんブログ村
posted by かのぴ~ at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月18日

もう10年以上、家にテレビが無い

ボクは家にTVを置いていない。

大学生の頃、一人暮らしをしていた頃には一応持っていたし、そこでアニメ見てたくらいかな。

就職したとき、TVは実家に置いていった。
当時はまだ液晶なんて無くって、重くて大きかったし、会社の寮に持ち込むのが面倒だったからね。

学生の頃からネット(といっても、テレホーダイの電話回線で、大学にTelnetで繋ぐという遅いものだけど)はやってたし、情報自体には困らなかったから。
会社の寮の食堂にはTVもあったしね。


その頃から、ボクはTVを持っていない。
NHKの拡張員が来ても、なにはばかることなく、「TV持ってません」と言えるわけだ。

それでボクは特に困らなかった。
ボクの生活には何の影響も及ぼさなかった。


ここからが本題なんだけど、なぜボクはTVが家に無くても困らないのか。

考えてみたら、ボクはそもそも人の顔の区別がつかないし、人の名前を覚えるのも苦手だ。
芸能人の顔なんてみんな同じようにしか見えない。特に女性。

次々と似たような"アーティスト"やら"タレント"やら"芸人"やら"アイドル"やら(この辺の違いも良く分からない)が現れては消えて行ってるんでしょ、としか思えない。

だから最初から、どうせTVの話題なんてついて行けていなかったのだ。アニメ以外。


別に主義主張があってTVを見ないということではないのだ。
無ければないでどうでも良い。

結局のところボクは人や社会に興味も執着も無いのだ。



もう一つ、ボクはTV放送について話すような相手がもともと居ない。

流行モノ=軽薄、という観念が強いボクはTVの話を(分かったとしても)どうしても下らない、と言う態度が隠せない。

そもそも友達自体が少ないという事情もあるだろう。



かくして、人に関心もなければ共通の話題も少なく、メジャーな話題は軽蔑するという、実に扱いにくい人間が出来上がっているわけだ。



困ったことに、このあらゆることへの無関心から来る、人の顔や名前を記憶できないボクの特質は仕事において障害になる。

たまに、「久しぶり」なんて会社で声をかけられることがある。
覚えていることのほうが珍しい。

適当に話をあわせるんだけど、名前が出てこない。

そんなときは、会社では、みんな名前の入ったIDカードを身に着けているんだけど、この名前を見ようとがんばってみたりする。
しかし、そういうときに限ってIDカードが裏返っていたりするのだ。

困ったものである。

・・いや、別に困ってないか。
嫌われても、相手にされなくても、別にボクは困らない・・ような気がするな。
posted by かのぴ~ at 21:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする